思ひ出ボロボロ
この記事はklis Adbent Calendar 2019用の記事です。安定の遅刻です。ごめんなさい。
先月某日深夜。
友人と夫と3人で竹園で酒を飲んだ帰り、気分も良かったので春日エリアまで足を延ばしてみました。卒論締め切りもまだ1か月以上先の日曜日なので、人影はありませんでしたが、自転車がいっぱい駐輪場に停まっていました。それを見て、もうなんとも言えない気持ちになったことを書きたいので、入学時から今までの10年くらいを振り返ります。
klisを去って久しい老害の話が聞きたかったらどうぞ。長いよ。
まともな大学生だったころ(2008〜)
私がklisに入学したのは2008年です。知識情報・図書館学類の2期生に当たります。
受験生だったときには「情報学群なら就職口の心配はなんにもありませんよ」と大学センターの支援課に豪語されましたが、ちんたら受験勉強をしているうちに世界的な不況がやってきていました。
嵐の中の入学式を終えた私たちはud先生の「図書館を愛する少年少女たち、君たちは古い」という衝撃的な言葉で迎え入れられました。やっちまったのかなぁと思いました。
よく覚えていないですがテンションで私はクラ代になりました。先輩にくっついていって都内の本屋ツアーをしたり、会議室を獲得したり、畳敷いたりしました。
自分たちが執行代になったときには同期にくっついていっていろんな挑戦をしました。
なんでか覚えてないけど週3で会議。うち一度は22時から開始する…など無茶をかました結果、宅通だった私は親と深刻な不仲になりました。
このあたりから記憶が怪しいです。忙しすぎました。優秀な同期に引け目を覚え始めたのもこのあたりだと思います。
さて、そうこうしていたら主専攻選びの時期になりました。図書館好きの少女だったまじめな私は考えました。
図書館は古い。自分は図書館のことに興味がある。
じゃあ図書館経営主専攻に進んだら視野が狭いままになっちゃうからまずいんじゃないの?
「まずくねーーーーーーよ!!!!ばか!!!!!
素直に進んでおけよ!!!!!!!
狭く深くやりゃあいいじゃんかよ!!!!!!!
なんでそこで謎ムーブしちゃったの!!!?????」
と、当時の自分をしばき倒したい気持ちですが、まぁ、もう10年前の話なのでしょうがありません。
知識科学主専攻に好きな教授がいたこともあり、そちらを選びました。
だけどね、その教授、その年退任だったのです。なのでその研究室には入れず。
いやー、私ってほんとバカ。
結局、クラ代同期と同じ研究室に入りました。
時空のはざまを漂っていたとき(2011~)
当然ながら、卒論は迷走。
同時に超ド級貧血になり、まともに立っていることができなくなりました。
これ、婦人科由来だとわかるのに2年かかりました。女性の方、婦人科には気楽にひょいひょい行きましょうね。20歳前後で不調が出る人、一定数います。
いつまでもぐずぐずと内科にかかっていてはだめです。
そんなわけで、徐々に大学に行けなくなり、留年することになりました。
だけど、親には通っていることにしなければいけませんでした。宅通の悲しさ。
決まった時間に車で出かけて、成田空港近くの公園まで行って、飛行機を眺めながら高飛びしたい思いを募らせていました。
おりしも東日本大震災の直後で、世の中も暗く、中退したら人生どうにもならない気がしていました。
大学の近くの交差点で右折待ちをしているときは、この場でハンドルをきって反対車線に突っ込んでこの世からおさらばしとくのが自分のできる一番いい行動なんじゃないか、と毎回思っていました。危ない。
同期により包囲網を敷かれる(2013~)
そんなこんなで危なっかしくも2年が経ちました。院進したklis同期が大学院前期課程を修了する年です。私はこの年に卒業できなければ退学です。
見かねた友人たちからの働きもあり、社会人になっていた同期の部屋の隣で一人暮らしをすることにしました。4月に引っ越して、研究室も変えて、心機一転頑張ることになりました。
最初は確か頑張れていたのですが、着手発表後、また怪しくなってきました。
それで、夏に、気分転換と勉強と就職先を探しがてら旅行に行ってきました。
4泊ほどの旅行を終えてアパートに帰ってきたら、複数の友人が待ち構えていました。
たぶん、彼らに旅行に行くことを伝えてなかったんじゃないかな。
自室から隣室に連行されて、部屋の真ん中で正座をさせられました。友人たちが私の正面左右を囲みました。普通に考えたらリンチの図です。めちゃめちゃ怖かったです。
結果、1時間くらいめちゃくちゃ教え諭されました。手は出されませんでした。みんな人格者。
それ以降、同期の友人たちによる包囲網が敷かれました。
私はバイトと通院のとき以外は常に誰かと一緒にいる状態になりました。
朝誰かが迎えに来て、昼は誰かが研究室から食堂に連れ出して食べ終わったら研究室に戻し、夜はバイト先で賄いを食べるか、隣人と食べるか、誰かがコンビニかデニーズまで一緒に着いていきました。研究室では同期が常に並んで作業していました。院生は研究のアドバイスを手厚くしてくれました。卒論提出1か月前からは、寝るところすら隣人の部屋でした。合宿状態ですね。みんな自分の生活や研究もあっただろうに。
物理的には逃げ出す隙はいくらでもあったものの、そこまでしてもらっていてはさすがにできず、何とか卒論を書き上げました。
卒論提出日には物好きな社会人が二人ほど有休をとって見物に来ました。昼飯から戻らない彼らを待つために、準備できた卒論を抱えて到着を待ちすらしました。おかしい。たしか結構ぎりぎりの時間になった気がする。
そして無事、提出できました。
その後(2014~)
発表も終えた1月中ごろから就職活動を始めました。そしたら3月に出版社からぬるっと内定が出ました。
すんなり就職し、社会人1年目に包囲網のうちの一人と婚約。2年目に結婚。
披露宴の準備と貯金をしながら、だめもとで某自治体の司書採用試験に応募。
筆記の大問に当時の弊社の商品が出されるミラクルがおきました。
面接では「図書館情報学っていうのは6年間かけて学ぶものなんですか?医学部みたいですね」と言われました。留年しただけですってちゃんと訂正しました。だけど受かりました。不思議。
披露宴には担任、最初の指導教員、最後の指導教員をお招きしました。面の皮が厚いとはこのこと。とは言え、披露宴の前夜には逃げ癖が再発。極度の緊張と恐怖から夫に駆け落ちを提案しましたが、夜逃げになるよと指摘されてあきらめました。
結局、披露宴は同窓会みたいな感じで好評でした。よかった。
それからもう4年くらい経ちました。たぶん。
安定した雇用、安定した暮らしになると焦燥感を覚えることも減っています。毎日klis同期の夫と修学旅行みたいな二人暮らしです。友人を家飲みに誘ったり、つくばまで行って飲んだり。
先日、そんな感じで友人と夫とつくばで飲みました。竹園の気に入っている飲み屋で飲んだ後、散歩がてら春日エリアまで足を延ばしました。楽しかったんですよね。なんか。
10年たっても酒飲んでバカ話できて散歩するだけで楽しい友人を得られたなんて、私はこの大学に入れて本当に良かった。へっぽこ学生だった私の唯一で最大の収穫だ。このために6年間ものたうち回ったのかもなぁ。そんなことを思いながら歩いていました。
歩いているうちに講堂横の駐輪場が見えてきました。葉が落ちかけた桜並木の下、深夜なのに大半が自転車で埋まっていました。
そこに差し掛かった時、友人が言いました。
「この間記録をあさっていたら見つけたんだけど、この駐輪場の担当、お前だったな」と。
言われて思い出しました。
当時もそこには自転車がたくさん停められていましたが、駐輪場として整備はされておらず、違法駐輪扱いでした。よく倒れるし、通路は狭くて自転車の出し入れはしにくいし、最悪でした。
それをどうにかしたくて、自転車の実数を休み時間ごとに数え、体育館裏にしか当時なかった駐輪場の状況も調べ、図情図書館前にたくさんあった違法駐輪に札を付け、クラス代表者連絡会議で先生方や事務方に向かって震えながら発言したのは、そういえば私でした。
もちろん全部一人でやっていたわけではなく、分担してやりました。
でも、とにかく、親と不仲になりながらもやり通したのはそれでした。
不思議なことに、言われるまで全く覚えていませんでした。
(追記)
読み返していたら、覚えてなかった理由がわかってきました。
たぶんなんだけど、駐輪場整備してる最中くらいから私ろくに大学行けてない。いや、行けてた時期も講堂の方は…?
もしかして私、1回も整備された駐輪場に自転車停めたことないですね?
そりゃ記憶から消えるわ。
(追記終わり)
なんかね、泣けちゃいましたよ。学部2年の自分に悪かったな、と思って。
忘れ去っていてごめん。あの時転んだせいでぐちゃぐちゃになったとずっと責めていてごめん。友達の金魚の糞だったなんて思っていて申し訳なかった。不器用で不誠実だったのは否定できないけど頑張ってたんじゃん。形になっていてよかった。君のその奮闘の結果は10年後も使われているよ。
私がやらなくても誰かがやったかもしれない。だって本当に不便だったから。
だけど、30歳になって、やっと20歳のころの自分を許せたので、上手いこと言えないけれど今になってやっとklisを卒業できた気がします。
この記事が卒論ってことで。ひとつ。ご承認お願いします。